無形文化財 田宮流居合
 田宮流居合のみのかね=規矩準縄・基本のことがら

 

○ 打ち下ろし(斬り下げ)

 

 打ち下ろしは力を捨て全身の気を以て打つに非ざれば切り難し。力は身に限りあり、心術に比すべからず。腰、腹に納まるの気より業に移らざれば、形崩れ全きを得難し。術は腹を以てと教ふれども、その実は腰に至らざれば心気に至りがたし。気力腰に集るとき自ら腹に渡り充つる。(田宮流伝書『口伝』より)

解釈
 打ち下ろし(斬り下げ)は力を抜いて、全身の気力を集中して行なわなければ、充分に斬ることはできない。力は身体によって限度のあるもので、心術にはくらべものにならない。腰と腹に納まる気力をもって業にかからないと、身体は崩れ、完璧な打ち下ろしはできない。劍の術では丹田であたれと教えられているが、実際は腰によって心気が生まれるのである。気力が腰に集ったとき、おのずから丹田にその気力は伝わるのである。
『打込みは気の中すみわするるな、峯谷のかね大事なりけり。』
打込みは兎角気の向ふ所に打込むものゆえ、気の中スミを敵の眉間に押しわたして其ままツボに打込むべし、目付はいつにでも敵の眉間也。峯谷のかねとは、峯は右肘、左肘を谷とよび、腕のかがみは両腕の伸び縮みをいう。(田宮流伝書『和歌』より)

解釈
 気力の向うところに打ち込むのであるから、気力を敵の眉間につけて、そのまま目的個所に打ち込むのである。つまり、目付はいつでも敵の眉間につけねばならない。これが、打ち込みにおける目付である。峯谷のカネの峯は右肘、谷は左肘である。この両肘のかがみは両腕の伸縮を指しており、打ち下ろしの際における両肘にはいくらかゆとりが必要である。これは、大事なことである。

演武
 斬り下ろす場合、腰に気を注ぎ、体も軟らかにして右手三割左手七割の割合で、両手首をうちに、手首の上を伸ばし、特に小指と薬指を強くにぎりしめ、左手の握りは強くして、両肘を充分に延ばす。しかし、いくらかゆとりが必要である。遠心力を利用して、極めて自然で行い、ヘソまで腕骨(拇指の関接)を延ばし、左手で斬る心持ちで斬り下ろし、両肘を身体につける。大事なことは、手首のスナップをきかし、太刀の物打ちを早く目的の個所に真っ直ぐに当てることである。こては太刀を前方に斬りつけるような心持ち(投げ出す気持ちであること)が好ましい。腕だけで振かっぶって斬ってはいけない。振り上げた時の力は零で斬り下ろす時の力は百である。この力は斬り終われば、次に応ずる時は零である。そして打ち下ろした瞬間は、最も強く握りしめて太刀を止めることである。また、両腕を伸ばし過ぎると、次の動作にうつりにくく、引き斬りの動作となる。あたかも上から下におろしただけのようになる。斬るということは、打ち下ろす力、手の握りしめる力、精神力の三つの総和であって、振り上げた太刀は次第に握りしめる。握りしめることで太刀は自然に止まる。止める意識で止めた太刀は死物であるという。(教伝)
斬り下ろしの時、体を前後にゆり動かして反動をつけないこと。体の中心を微動だにさせず、腹で斬る心持ちであること。そして斬り下ろしの速度は、敵の頭上より胸までが最も早く、太刀の止まるあたりは柔らかであること。斬り下ろして太刀の止まったときは、太刀で跳ね返ることのないよう静に止めるのである。このときの体勢は、全身が固くなく、腰を前に押し出す心持ちで行う。しかも腰に力を入れ、上体を前に曲げず、背中を真っ直ぐに伸ばすのである。斬り下ろしは左手を主として行うこと。右手に力が入りすぎると、肩にも力が入り、刃筋が通 らなくなってしまう。であるから左手を軸として、右手は添えるようにすることが望ましい。極端に全力をこめて斬り下ろすと、体は崩れ、太刀に振り回され、刃筋乱れ、太刀はゆれる。斬る気持ちを捨てて太刀を振り下ろす心持ち、すなわち全身の力の八割で斬れということである。(教伝)